私は幼いころから絵をくことが好きで、大きくなったら「絵描き」になろうと思っていました。昭和14年2月、三重県度会郡の二見町に生まれ、料理の世界に入ったのは、まだ遊びたいばかりの15歳の少年時代でした。当時は、NHK子供の時間に放送されていた「笛吹章子」が、同年代に大好評で私も同じように熱中して聞いていたものでした。一方、社会情勢は、朝鮮動乱後に発生した消費景気、投資景気につづく景気の谷間、不況下にあって「食べること」に不自由な時を過ごし、母親に「自分の進路」について相談したところ「絵描きになっても食べることは容易ではないよ」と、また、「食べることの道を選ぶほうがおまえのため!」の一言で、私の道が決定したわけです。 そこで縁故関係であった地元の「二見館」へ新入り、日本料理道の一歩が始まり、大阪(松葉)、岐阜、名古屋などで修行を積んだのち、昭和四十七年には、第十三次・日本南極観察隊に参加、中国に於いて「日本料理のルーツを研究する」傍ら、ネパール、ヒマラヤのトレッキングに参加。また、二回におよぶ「日本南極地域観測隊越冬隊の料理長」として、隊員の皆様の健康管理に努めましたことは、忘れ得ぬ思い出となっています。
 昭和五十七年、縁あって料亭「魚鉄」の料理長として迎えられ幸運なスタートをきり、その後昭和六十三年、金沢の料亭「つる幸」のご主人・河田三郎さんとの出会いが、私にとって素晴らしいものでした。夕餉の席に運び出された料理。それは「器と料理との調和」が見事で、まさに「五味八珍」とでも申しましょうか、それは深い感銘を受けました。 それ以来、「元禄時代の食事」に着手し、中でも朝日文左衛門重章が書いた日記「鸚鵡籠中期」との出会いもまた、時代物の食事の再現に拍車をかけるきっかけとなりました。また、料理人生のうちで、自分の創る料理にマッチした「器」にめぐり会えなかった折の平成七年、お店のお客様で陶芸家の安藤日出武先生と話す機会を得まして「器造り」の手解きを受けて三年が過ちました。やはり、夢だった「自分の造る料理を自分の器で、愉しく召し上がっていただくこと」が、私の願いで、作陶の世界へも飛び込んだのです。  私は還暦を迎えたのを機に、幼い時の「絵描きの夢」を実現するに当たり「日本料理の伝統文化」が、特別な人だけの特別なものとなっては、いづれ消滅してしまう、と危惧し、四十五年に及ぶ「包丁人生」の集大成として、真摯な心で、つたない私の絵筆による絵献立「料理人の趣味の絵本」を発刊しました。(料理のページのフラッシュ画像)そして、このたび念願だった実家二見の庵を料理屋に手直しし、1日1組限定のくつろぎどころとして「五峯庵」をスタートさせました。ぜひ伊勢路の料理を楽しみに「五峯庵」へお越し下さいませ。心よりお待ち致しております。

【五味貞介】
生年昭和十四年二月二十五日生
 昭和二十八年
   二見町立二見中学校卒業後、十五才から日本料理の道に入る。
    二見料理旅館「二見館」にて五年間、 大阪の料亭「松楽」で五年間、
    岐阜の料理店「かき松」で五年間、名古屋「尾州」の料理長。
 昭和四十七年
    第十三次日本南極観測隊に参加。一年三ヶ月昭和基地にて越冬する。
 昭和五十年
    ネパール・ヒマラヤ・トレッキング
 昭和五十五年
    第二十一次日本南極観測隊に参加。一年三ヶ月昭和基地にて越冬する。
 昭和五十七年
    料亭「魚鉄」料理長。
 昭和六十一年
    中国雲南省チベットに出かけ、日本料理のルーツを探る。
 平成七年
    中国南京、場州商業大学で講演。
 平成十二年一月二十二日  
    還暦を迎えたのを機に、十七年間務めた「魚鉄」の料理長を卒業。
    「料理人の趣味の絵本」と題して「絵献立の十二ヶ月」を発刊。
 平成十四年
    実家二見に戻り、1日1組の店 くつろぎどころ 「五峯庵」を開く。
   
「築150年の「庵」で伊勢路の料理を自分の作った器で自分の料理を出すのが夢だったんです。」
現在 日本風俗史学会員
愛知県日本調理技能士会 会長代行
日本調理史連合会師範
国際調理師専門学校講師
南極専門委員・食料担当員を選ぶ人事担当
受賞 昭和六十一年
全国技能大会により農林水産大臣表彰受賞
昭和六十二年
食文化促進より奨励賞を受賞
平成二年
尾張の名工により愛知県知事表彰受賞
新聞記事・・・15年1月4日中日新聞「少年よ大志を抱け」
新聞記事・・・15年2月2日中日新聞「人生の先輩」



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南極へ〕 昭和基地 南極のペンギン 村山隊長 受賞 再現料理



くつろぎどころ『五峯庵』
三重県伊勢市二見町山田原499-2
TEL・FAX0596-43-3522